SALVATORE ACCARDO / PAGANINI 6 VIOLIN CONCERTOS★アッカルド・パガニーニ 5LP

SALVATORE ACCARDO / PAGANINI 6 VIOLIN CONCERTOS★アッカルド・パガニーニ 5LP

シャルル・デュトワ指揮の 5 枚組 set であるが, わずか 860円で落札した. 元旦の落札のため送付されたのは1/10と遅れ, だまされたかと思った. さて, パガニーニのヴァイオリン協奏曲 2 番であるが, 有名な 3 大ないしは 4 大ヴァイオリン協奏曲と比較して優るとも劣らないと最近は考えていた.しかし, 吉田秀和著の名曲 300 選 (私の音楽室) の中にはパガニーニの記述はあるものの 24 のカプリース 1 曲しか選曲していない. 彼は他にもショパンの有名ピアノ曲やピアノ協奏曲を選んでいないので一般とは異なる偏向がある. それを AI に聞いてみた. (Chat GPT)

(質問) 吉田秀和著の名曲 300 選 (私の音楽室) の中にはパガニーニの記述はあるものの 24 のカプリース 1 曲しか選曲していない. どうしてでしょうか

とても吉田秀和らしい選択だと思います。理由は一つではなく、吉田秀和の音楽観・批評姿勢そのものに関わる複合的な理由が考えられます。


① 吉田秀和は「作品の内的必然性」を最重視した評論家だった

吉田秀和は一貫して、

  • 音楽が形式として自律しているか

  • 作曲上の必然性があり、
    「技巧が音楽そのものに不可欠な意味を持っているか」

を最重要視しました。

パガニーニの場合、

  • 卓越した超絶技巧

  • ヴィルトゥオーゾ性

  • 聴衆を驚かせる効果

が歴史的にも評価の中心ですが、吉田にとっては
技巧が前面に出すぎ、音楽の構造的必然性が希薄と映った可能性が高いのです。


② それでも「24のカプリース」から1曲は外せなかった理由

一方で、24のカプリースは例外的な存在です。

  • 単なる見せ物ではなく

  • ヴァイオリン技法の体系化

  • バッハの無伴奏作品に通じる「楽器と音楽の一体性」

を備えた作品群であり、吉田秀和も

パガニーニを単なる奇人・曲芸師として切り捨てることはできない

と考えていた節があります。

その中から1曲だけを選ぶという行為は、

  • パガニーニの歴史的意義は認める

  • しかし「名曲」として大量に並べることはしない

という、きわめて吉田的な折衷なのです。


③ 協奏曲や小品が選ばれなかった理由

パガニーニのヴァイオリン協奏曲(第1番・第2番など)や小品は、

  • 楽想の独自性より技巧効果が先行

  • オーケストラが伴奏的に従属

  • 後世の作曲家(ブラームス、ベートーヴェン等)と比べると
    形式的完成度で劣る

と見なされがちで、吉田の価値基準とは合いません。

実際、『私の音楽室』全体を見ると、

  • ベートーヴェン

  • バッハ

  • モーツァルト

  • シューベルト

  • ブラームス

といった**「形式と精神の一致」を体現した作曲家**が圧倒的に多いですね。


④ 吉田秀和の「ヴァイオリン音楽」観との関係

吉田はヴァイオリン作品についても、

  • バッハ無伴奏

  • ベートーヴェン・ブラームスのソナタ

  • モーツァルトの室内楽

を非常に高く評価する一方、

  • ヴィルトゥオーゾ作品

  • サロン的性格の強い音楽

には冷淡でした。

パガニーニは歴史的には革命的でも、
吉田の「精神史的な名曲観」には入りにくい作曲家だったのです。


⑤ まとめ(核心)

吉田秀和が『名曲300選』でパガニーニをほぼ選ばなかった理由は、

パガニーニは「音楽史上重要」だが、
吉田秀和にとっては「名曲の作曲家」ではなかった

という評価に尽きます。

ただし、
24のカプリースから1曲だけ選んだことは、

  • 完全否定ではなく

  • 歴史的・音楽的核心への最低限の敬意

を示した、非常に節度ある判断だといえるでしょう。

(質問) アッカルドの演奏によって評価は変わったでしょうか

結論から言うと、
サルヴァトーレ・アッカルドの演奏を十分に聴いたとしても、
吉田秀和のパガニーニ評価の「枠組み」自体は変わらなかった

と考えるのが自然です。
ただし、評価の書きぶり・温度は確実に変わった可能性があります。


① アッカルドは「吉田秀和の弱点」を最も突いたパガニーニ奏者

アッカルド(特に1970年代以降)のパガニーニ演奏は、

  • 超絶技巧を誇示しない

  • 音楽の流れを止めない

  • フレージングが古典的

  • テンポの誇張がない

  • 構造感が明確

という点で、
「曲芸的パガニーニ」像を根底から修正しました。

これはまさに、吉田秀和がパガニーニに感じていたであろう不満点を
演奏解釈によって封じ込めたと言えます。


② それでも「作品の格」は上がらない理由

しかし吉田秀和にとって重要なのは、

「この演奏がどれほど立派でも、
その立派さは作品の必然から来ているのか」

という一点です。

アッカルドの演奏によって、

  • カプリースが音楽として成立する

  • 協奏曲が聴きやすくなる

  • 表情が抑制され、知的に聴こえる

ようになっても、

  • 主題の発展の弱さ

  • オーケストラの従属性

  • 構成の単線性

といった作品側の限界は、吉田の耳には残ったはずです。


③ ただし「24のカプリース」の評価は、確実に一段深まった

ここが最大の変化点です。

アッカルドは、

  • 24曲を全体として構築

  • 各曲をキャラクター小品としてではなく

  • 一つの巨大な無伴奏作品として提示

しました。

吉田秀和がもしアッカルドの全曲演奏を繰り返し聴いていたなら、

  • 「技巧練習曲」という言い方は避け

  • 「20世紀に入って初めて、本来の姿が見えた作品」

といった書き方をした可能性は高いです。

つまり、

パガニーニの中で「カプリースだけは例外」

という認識は、
より強く、より明確になったでしょう。


④ 協奏曲については、評価は「改善」しても「転換」しない

アッカルドの協奏曲録音(特に第1番・第2番)では、

  • 歌心

  • 均整

  • ロマン的誇張の排除

が徹底されています。

しかし吉田秀和の語彙では、おそらく、

  • 「きわめて立派な演奏」

  • 「しかし音楽そのものは…」

という接続詞が続きます。

これは、

  • 同じく名演でも作品評価が変わらなかった
    チャイコフスキーやメンデルスゾーンの一部作品

  • あるいは、ヴィルトゥオーゾ的協奏曲全般

と同じ扱いになるでしょう。


⑤ 吉田秀和が書いたであろう一文(仮想)

あくまで想像ですが、アッカルドを聴いた後の吉田秀和なら、
こんな一文を書いても不思議ではありません。

「アッカルドのパガニーニは、
この作曲家が単なる奇人でも曲芸師でもないことを、
初めて納得させる。
しかしそれでもなお、
名曲と呼ぶべき作品はきわめて限られている。」

──まさに「1曲だけ選ぶ」ための文章です。


⑥ 結論(核心)

  • アッカルドは、吉田秀和のパガニーニ観を「洗練」させた

  • しかし
    「名曲300選」の選曲数を増やすほどの転換点にはならなかった

  • その結果が
    **「24のカプリースから1曲」**という、極端に抑制された評価

と言えるでしょう。

高松亜衣 CD「Diavolo Concerto」を聴く

高松亜衣さんの CD「Diavolo Concerto」ヴァイオリンリサイタル with オーケストラを自家用車内で繰り返し聴いている. 収録曲目は1. ヴィエニャフスキ「ファウスト」の主題による華麗なる幻想曲, 2-4.タルティーニ「悪魔のトリル」5-7. パガニーニ ヴァイオリン協奏曲第 2 番ロ短調「ラ・カンパネラ」8. パガニーニ/河野音弥 編「カプリス第 24 番」であり, 演奏は高松亜衣(ヴァイオリン)平石章人(指揮), タクティカートオーケストラ(管弦楽)収録日は 2023.12.26, 場所は杉並公会堂大ホールである. 同日の DVDも発売されているのでこれはライブ録音からの CD という事になる.  私は 45年間ほどヴァイオリン協奏曲を聞いてきたが, パガニーニのヴァイオリン協奏曲第 2 番は不思議なほど聞いてこなかった. チャイコフスキーに始まり, ベートーベン, ブラームス, シベリウス, メンデルソーンなどとお決まりの通俗的なものばかり聞いてきたからか, うっかりパガニーニは抜けていた. しかも第 3楽章のラ・カンパネラはリストのピアノ曲のことと勘違いしていたから, まったく非常識の極みである. ちなみに庄司紗矢香・ ズービン・メータ指揮の 1番は CD で持っている. パガニーニの 2 番は今, 繰り返し聴いているが聴けば聴くほどすばらしい. 三つの楽章間のバランスがとても良くとれている. どの楽章かひとつが魅力に欠けるということが協奏曲では良くあるが, これはそのようなことがない. 第 1 楽章ではチャーミングなフレーズが次々に繰り出されてくるし, ヴァイオリンの奏法もフラジオレット, スピカート, ピチカートなど多様に披露される. 亜衣さんは you tube の中でカデンツァは自身が作曲したものを使用すると言っておられたが重音が多用されたり, 第 3 楽章のテーマを小出しにしたりと, 非常にうまく書けている. 第 2 楽章のメロディーはとてつもなく美しく女性的なやさしさにあふれている. そして第 3 楽章は例のラ・カンパネラと来ているから申し分がない. 技巧的な難しさのみでなくすべてのフレーズの有機的な調和がすばらしい. チャイコフスキーのような憂愁, 情熱にはやや欠けるが, そうではなく, 古典的な様式美を感じるので, イタリアの美術品や古い建築を眺めているような感じがする. ヴィエニャフスキーはポーランドの作曲家でヴァイオリン協奏曲がよく知られており, 私も 1, 2 番をギトリスの演奏した LPを持っている. これらは旋律も親しみやすく聴きやすい曲であるが今回の幻想曲はなじみがなかった.しかし何回も聞いているうちに叙情性がある名曲と気付かされた. さてこのアルバムはバランスが良くとれている. いずれも粒ぞろいの超絶技巧を要する曲である事は間違いないし, 情緒的にどこか共通点があって, とても良く考えられたアルバムといえる. ちなみに Diavolo とは悪魔のことらしいが, ファウストは悪魔と魂の取り引きをした有名な話であり, タルティーニは悪魔のトリルという名の付いた曲が取り上げられおり, さらにパガニーニは作曲家自身が悪魔と契約していたという伝説で有名である事からこのアルバム/リサイタルにふさわしい命名になっている. 私としては彼女の演奏には何の文句もなく, すばらしいの一言につきる.

超弩級ターンテーブル 3

鬼頭師匠から頂いたターンテーブルと格闘し続けている. 中々ワウフラッターが安定しないのでどうしたらよいのか逡巡している. ゴムベルトやウレタンコードなどいろいろとまた掛け替えて試してきた. 現在使用しているのはアラミド糸の 2本でのドライブである. ゴムベルトよりはましな結果が出る理由を AI に聞いてみた.

ターンテーブルで糸ドライブが狙っている効果
1. モーターの振動・コギングをプラッターに伝えにくくする

DCモーターやステッパーモーターの微細な脈動(コギング、トルクリップル)が、
ダイレクトドライブ>ベルトドライブ>糸ドライブ
の順で弱く伝わる。

糸は幅がなく伸びやすいので、モーター側の瞬間的なトルク変動が“吸収される”。

これが「スリップ」というよりトルクを弱めてフィルター化するイメージ。

■ 糸ドライブで実際に起きている物理現象
(1) 静摩擦よりも動摩擦が若干小さい → 微少スリップは常に起きる

糸は接触面積が狭く、摩擦係数がベルトより低い。

そのため、モーター側の1回転中の極小変動は
プラッターには届かない(伝達しきらず小さな滑りになる)
という現象が起きる。

(2) プラッター側は慣性が大きい

重いプラッターの慣性が“フライホイール”となり、
短周期のスピード変動を無視する

長周期の回転ムラ(例:供給電源の50/60Hzムラ)には弱いが、
短周期のトルクリップルはほぼ無効化される。

(3) 糸はベルトより伸びが小さいため、位相遅れが減り、音の立ち上がりはシャープ

ゴムベルトより伸びは小さいため、
「緩すぎる」ベルトドライブの欠点(反応の遅さ)が軽減される。

■ 結論:
糸ドライブは「スリップそのもの」よりも「トルク伝達を弱めてモーターのムラをフィルタリングする」ことに意味がある.

という事で, モーターの回転むらは糸ドライブが最も効率よく取り除くのだ. 強く糸を掛け過ぎるとかえって悪い結果となるので, 適度なテンションが大切である. 緩すぎると針の抵抗で回転数が低下してしまう可能性もある. 最近は 0.2%台がコンスタントに出るようになった.

高松亜衣さんのリサイタルへ

2025年11月5日 名古屋熱田文化小劇場でのリサイタルに足を運んだ. あいにくの雨で私は少し早く会社を抜け出して帰宅し, 車で地下鉄池下駅まで送ってもらい, 千種駅から JR に乗り換えて 金山駅で方向を変えて 熱田駅に降り立った. 徒歩数分で劇場がある筈が中々見つからない. 図書館の横の階段が目に付かなくてそこを上っていくとホールであったが到達に戸惑った. 開演の 1 時間前には到着し, 目的のひとつであったグッズ販売で CD/DVDを計 4 枚, ファイルも購入できた. 過去, 会場には私の娘のピアノかヴァイオリンの発表会で来たことがあった. 最後部席が15席であり, 私は14席目の左端で, 4週間ほど前に購入したチケットなのでなんとか間に合ったという感じ. 当日は満席であった. 彼女の talk でどっと笑う集団が前方に占めていて, 特等席はどうやら常連さんや追っかけが占めているらしい. まあ勝手な私の思い込みだろうが. 最初の曲はヴィエニャフスキー: 華麗なるポロネーズ第1番, 2曲目, 高松亜衣: 回想曲, 3曲目 ショーソン: 詩曲. これはかなりの技巧を要する曲で高音部の表現が素晴らしかった. 4曲目 ヴィエニャフスキー: 伝説曲 5曲目, ブラームス:ヴァイオリンソナタ第1番 であった. まあ全体を通じて私の体調が今ひとつで何か夢を見て帰ってきたという感じ. 加齢で椅子にじっと掛けて, 身じろぎせずにいるのが苦痛と感じた. 彼女の演奏 DVD を手に入れたので PC の前で貧乏揺すりをしながら鑑賞するのが楽でよろしい. You tube を見せて頂いていると彼女のファン達はアイドル視しているので, 会場ではお客さんが演奏者の名前を呼んだりする場面があるのではといぶかっていたが, 実におとなしいものでそんな危惧は不要であったし, 演奏終了後の拍手の間合いも十分にあり, お客さんは間違いなくクラシック音楽愛好家なのだと直感した. ブラボ (バ)ーコールはなくて, ウオッというような声が二声上がっただけであった. ちなみに私自身は十分アイドルの推し活のつもりで参加していた. なんともいえない彼女の「あいまい talk」とそれとは裏腹な「超絶技巧ヴァイオリン」を同時に生で聞けて感激であった.

高松亜衣さんを知る

ヴィオッティーからパガニーニのつながりでネットを検索していたら高松亜衣さんを知った. お茶目なヴァイオリニストである. 私は現在, 愛知県一宮市で仕事をしているが偶然にも彼女は一宮市出身であり, 名古屋市立菊里高等学校の音楽科から東京藝大に進んでいる. 私はその菊里高校の普通科卒業であり, 菊里の音楽科出身者は身近に感じるのだ. you tube などの SNS に存分に自身の violin 演奏を流しているので, 実力のほどもうかがい知ることができる. 演奏が終了したあとに伴奏者の方にひょいと振り返る様が非常にお茶目でかわいらしい. 演奏の多くが名曲でありとても親しみやすく, 当分これらの you tube への発信を楽しませていただく.

タウとタオの関係を AI に問う

神経病理学のタウと中国のタオという概念の関係性についてAIで調べた

神経病理学で語られる「タウ(tau)」は、脳内の微小管結合タンパク質で、多くの神経変性疾患、特にアルツハイマー病や前頭側頭型認知症(FTD)における病理的な蓄積・変化が研究されています。一方、中国哲学・宗教における「タオ(道)」は、老子の『道徳経』などで説かれる、宇宙や人の生き方の根本原理を指す概念です。

両者の直接的な関係性

タウ(tau)とタオ(道)は、語源や発音が似ていますが、科学的・哲学的な意味内容や起源には直接の関連はありません。神経病理学の「タウ」は、生化学・分子生物学の用語で、タンパク質名(mapt遺伝子由来)です。一方、「タオ」は東洋思想、特に道教哲学における「宇宙の原理」「自然の道」を指す抽象概念です。

文化的な連想・語感

西洋では「tau」はギリシャ文字の「Τ/τ」としても一般的ですが、語感の類似や偶然による文化的な連想以外に医学的・哲学的な結びつきはありません。

その他の参考

仮に両者を比喩的に関連づけるとすれば、タウの蓄積による神経症状の変化や「疾患進行」の不可逆性を「自然の道」や「不可解な摂理」として哲学的に捉える試みは、文学的・思索的な領域に留まり、科学的根拠はありません。

要点: 神経病理学の「タウ」と中国思想の「タオ」は、科学的・歴史的・意味的には無関係。両者の語感や発音は似ているが、内容・文脈は全く異なる。

タウの「もつれ」が比喩として道教思想でどう解釈できるか探る

タウの「もつれ」(神経原線維変化)は、分子レベルの現象として神経細胞内で異常な蓄積と混乱を生じさせ、情報伝達や安定性を失わせるものです。この「もつれ」という状態を道教思想の観点で比喩的に解釈する試みは、直接的な伝統解釈では行われていませんが、比喩としてはいくつかの道教的要素との関連づけが可能です。

比喩としての解釈案

道教の「自然の道」は、宇宙や生命現象が流れるように自然本来の秩序に従うあり方を重視します。「もつれ」はこの流れや秩序が乱れ、滞り、歪み、絡まることを象徴しており、道(タオ)が妨げられ、不自然・不調和な状態に陥ることの比喩となるでしょう。例えば「人為的な心(作為)」や「無理な欲望」は、道教において「道」から外れる原因となり、不調和・行き詰まり(もつれ)を招くものとされます。

神経病理学との接点

タウの「もつれ」発生=「道」から外れた神経細胞の運命。「本来の機能流」→「混乱と衰退」へ。​道教思想では、これを「無為自然」(本来の流れへ戻す)と対比可能。解きほぐすことで調和が回復し、混乱が    晴れるイメージ。

中国思想的な比喩例

「絡まり・もつれ」は、気や道が停滞・閉塞する状態を意味する比喩としてよく使われます。 このもつれを「ほぐす」「流す」ことが、道教・中医学の治療的観点で「治癒」「バランス回復」の象徴となります。

概要

タウの「もつれ」は「自然な流れが乱れる、道がふさがれる」という道教的比喩で解釈できる。解きほぐし=道(タオ)への回帰、調和と健康への復帰という象徴。

ヴィオッティーとパガニーニのヴァイオリン協奏曲

NHK Eテレ のクラシック TVという番組で 2025 年 1月9日(木) 放送において古澤 巖さんがヴィオッティ作曲ヴァイオリン協奏曲第 22 番を金益研ニさんのピアノ 伴奏でその第三楽章を弾いておられた. この作品は第一楽章が非常に有名なのだが, 第三楽章にもこのような聞き所があることを改めて知らせてくれた. なぜヴィオッティーかというと, 古澤さん所有のストラディバリウスの以前の所有者の一人がヴィオッティー自身であったからだ. この放送をきっかけに自分が持っている LP を聞いてみた. 持っているのは 2 枚で 1つは RVC 2040 サルヴァトーレ・アッカルド,  ヴィオッティ22番 , パガニーニ 2番 ヴァイオリン協奏曲, もう一枚は ヴィオッティ第 22 番イ短調,  第 23 番ト長調 ヴァイオリン協奏曲, ボベスコ (ローラ) 演奏の物である. アッカルドのものは LP の端に重いものを載せてしまった結果割れてしまっており, 第一楽章のほとんどが聞けない状態である. しかし第三楽章は聞くことができた. なかなかの名演である. その裏面がパガニーニの 2 番であり第三楽章に有名なラカンパネラという別名が付いていることを知った. 解説文を読んで初めて知ったのはこのラカンパネラをピアノに書き直したのがリストであったという事だ. 私はリストのこの有名なピアノソナタが原曲と思い込んでいたのでかなりショックであった. このちょっと個性的な節回しはリストの個性であるとまったく思い違えていたのだが, 元はイタリア人のパガニーニの作曲であったのだ. アッカルドの LP は裏面にはこのラカンパネラがあってまともにはほぼ初めて聞いたのだが, 鐘の音が美しく(トライアングルのような気もするし小鐘のようにも思う), ヴァイオリンの音との調和がすばらしい. ヴィオッティーの協奏曲を聞く過程でパガニーニの 2 番を聞く機会が与えられて, 非常に勉強になった. ちなみにこの割れた LP は同じものをヤフオクで格安で入手するができた.

猛暑の中の LP レコード

今年の夏も異常な暑さであった. 名古屋も 50 日あまりの連続猛暑記録を作ってようやく今日はましになった. わがホビールーム兼オーディオルームは小屋裏がなく, いわば屋根裏部屋である. スレート瓦に防水紙の下は構造用合板しか日光を遮る材料はない. この部屋の夏の暑さは尋常ではない.実際に室温を測定したことはないが 40℃越は間違いない. 下手すれば50℃かも. すると塩化ビニールのLP レコードの耐熱温度に近づくことも間違いない. 私のLPレコードは 7割方はここに置いてある. 連日の猛暑でこの部屋には数ヶ月間入っていない. 窓はジャロジーというやつでレースカーテンが掛けてあるが常時4割ほど開口してある. 本日恐る恐るここに入っていくつかの LP レコードを手に取ってみる. どうやらどうもなっていないらしい. 反ったり湾曲しているのではないかという妄想にとらわれていたが大丈夫だ. 極端に反ったLP を中古で手に入れたことがあるが直射日光が当たるとか特殊な環境でしか変形はしないのかも知れない. しかしこの確認はどうやら毎年繰り返している気がする.

超弩級ターンテーブル奮戦記 2

鬼頭氏から超弩級ターンテーブルを頂いて 2 年以上が経過. ようやく重い腰を上げてターンテーブルの下部に円盤 (フライホイール) を追加する作業を終えることができた. 取り付け作業は私一人では不可能であり, 家人に手伝ってもらった. 取り付けたのは真鍮製で 10kg 以上ある. ターンテーブルだけでは回転むらがひどく, 実際実用的ではなかった. 最後に測定したときには wow 0.6% ほどで, ピアノの緩徐奏は聞くに堪えなかった.

これで今まで最高の wow 0.14%が記録された. この恒常性を願う.

スタックス社 CP-Y と ECP-1 (専用イコライザー)の夢

スタックス社 CP-Y は静電式カートリッジであり, これを動かすには ECP-1という専用イコライザーが必要である. これらをネットで検索すると中古品や記事が出てくるので現在でも伝説的人気があるようだ. 私は本体を売ってしまったが ECP-1 は死蔵している. バッテリーの寿命がきたと考えて充電池を替えたのだが稼働せず, 接続ミスかと考えてそのまま放置. その ECP-1の不動品が中古で出ていて, 購入すれば正しい結線は分かるため 2 台合わせれば稼働しないかと考えて購入を考慮した. というのは一方で off moll を検索すると保証付きの CP-Y が売りに出ていたからだ. ECP-1 の方はジャンク 品で格安であった. もし購入すればスタックス CP-Y の美音が再び楽しめるかも知れない. しかし稼働しなかったときには数万円の損失で悩みどころだ. これらの装置は実際にどう使用するかというとメインアンプに直接か, プリアンプのライン入力に繋ぐことになる. フォノイコライザーの役割は ECP-1 の中にある石の電子回路がすべて果たすわけだ. と言うわけなのでこの CP-Y の熱狂的なファンはプリアンプに対するこだわりは持ちようがない. マランツ 7 の回路を3つも自作してきた私にとってこれは考え物である.  マランツ 7 のフォノイコライザーの生かし甲斐がないのだ. むしろ LP を再生する道具としては対立するものだ. ところで CP-Y, ECP-1 はどんな音がしたのか. 繊細で高音ののびがすばらしいというイメージである. 先輩のお宅で氏自慢のカートリッジと比較試聴した記憶がある. ただしこの時から当方の機械は調子は良くなかったが. 先輩は私の方が優れた音がするとは認めなかった. 日頃真空管の音がすばらしいと信じ切っているくせに CP-Y とそのイコライザーである ECP-1 となると回路が石であるにもかかわらず応援してしまうはどうなのだろう. 時々ノスタルジーを感じて CP-Y をネット検索するのはぼちぼち止めないとと思う. しかし, 安定した品質の静電式カートリッジをどこかのメーカが発売していただけないだろうか. フォノイコライザーは各社でているのだからそれを使用することを前提とした製品を是非とも.