前と後ろの時間学

前と後の時間学

パワーポイント(ppt)というコンピュータソフトがある. これは頁の中に様々な情報,写真,ビデオなどを入れ,次々にめくっていくことができる紙芝居の一種である. 学術研究や会社でのプレゼンテーションに頻用されている. そのソフトを使っていて面白い事に気づいた.  ある頁の次の頁を見るときには「次」という言葉を, しかし後の頁に戻るときに「前」という言葉が使われているのである。前に? どうして前なのか? 過去の頁を前というのはなぜか?後ろに戻ることを前というのは何故か. そもそも日本語では前にもどるも過去に戻ること, 後ろに戻るも過去に戻ることとして語義が同じだ.
前という語には不思議に違和感がある.  前と何故言うのだろうか考えると, 前という言葉が過去のある場面を指すことをしめす語に「以前」という言葉があるように思われる. 以前は字義通りに解するとある時から前を指すことになる. この場合前とは明らかに過去を指している. 以前はある時点から過去に向かう,以後はある時点から未来に向かう時系列を表している.
時間とはなんだろうか. 未来はまだ起きていないので見えていない. 現在は見えている. そして過去は記憶としてその残像が残っている. 前へ前へとbackするという言葉があって, これは矛盾する事象を揶揄した表現である. 実は人間は前へ前へとbackしているのではないか.  過去という残像を凝視しながら後ろ向きに進んでいるのである.  そうすれば前は過去であり, 過去に戻ることが前に行くことになるのである. 全て経験したことはその瞬間に過去になっているのだから. 人間の経験は全て以前の世界である. 未来は以後であり以後はまだ経験していない.
しかし逆にどうして未来のことを前と言わないのか. 前の彼氏という言葉もある. 時間が過ぎた後という言葉. 放課後という言葉。なにかが終了したらその後は後なのである.
終了した後は時間的には最も現在に近いにもかかわらず後という言葉を用いている.
時間は後に進んでいてその最先端を最も「前」にあるとすると時間は前へ前へと back している.
人間が止まっていれば時間は前に過ぎる. 時間が止まっていれば人間は時間の後に向かって走っている. 時間と人間は相対的に逆方向に対置される. 時間の過ぎる方向を鋭敏に感じれば過去は前と言うことになろう.

Ppt や書籍で表紙が前であるという考え方ができる. 置けば最も表面であり顔であり, 前面である. 頁をめくると後ろに行くし戻れば前に戻るのも分からないでもない。発表するときは表紙から始めるのであるからスタンバイの状態に戻すことは表紙に戻すことであり,そのことを後ろに戻すとか以後に戻すと言うのも異和感がある。
本をめくっても1頁前の頁は前という。情報がスタックされたものは表紙と裏がある。これを前と後で表現すると表紙は前と言って,裏は後と言ってしまうし矛盾を感じない。すると1ページ戻ることは前の方向に向かっていることになる.

過去にさかのぼると言うことを書籍をめくる方式で見ていくと変なことに気がつく. すべての事象はある事実の断片である. 記憶は事実の断片の集まりで,それが文に残されたものを記録という.  この際手っ取り早く日記で考えよう. 通常ある日のことを知るのにはその日の朝からの記録を夜に向かって解読する. 夜の記録から読みはしない. ではその1週間前のことは翻って日付を遡ってまた朝から解読する. 物事が文で形成されているときにはその文を逆には読まない. 一定期間の事を調べるにはある時点からの一定期間を時間の流れにしたがって読み進み, それ以前のことを知りたくなるとまた戻ってまた一定期間を時間の流れにしたがって読み進む. 行ってみれば短時間のジグザグ走行で記録を見ている.

例えば誰かを好きになったとしよう。それより過去には好きという事実がなかったとすれば好きではなかったという事実が変化して好きなったという時間の流れがある. 突然好きになったとしてもそこには時間の経過があったはずでは. すると一定の期間に好きではなかったものが好きなったという流れがある. ビデオを逆回しにすると運動というものは逆に動いてもとの状態に収束するようにスムーズに動いて見える. 好きになったという過程を逆に回すと,好きな状態から好きでない状態になっていく過程を見るはずだ. 記憶というのは例えば誰かが好きであったと言う記憶であって. その過去にはその人が好きでなかったという記憶ではない. 誰かを好きになったという記憶はそれ以外の誰も好きではなかったという記憶なのかもしれない.

進む方向の最も前にある部分を前という.車両の前面である. 進むとは前を動いている方向に向けている事を言う. 前部分は他の部分より先にある場所に到達する. ある場所を通過したときに前の部分が通過した時刻は過去になる. すると前の部分は常にうしろの部分より過去になるのではないか. この文脈では前は常に過去である.紙芝居が始まると前=表紙はすぐに過去になるから前は過去である.

前向きという人間の心がけについての表現がある. 一方で後ろ向きという語もある. 物事に楽観的で失敗を恐れずに新たな目標に立ち向かっていき失敗などにくよくよしない立場と思える. 人は前へ前へとbackしているといった割にはこれでは人は皆後ろ向きに生きていることになってしまう. 前向きな生き方とはどう定義できるのだろう. いろいろな人とより積極的に会話をする, より多くの物事に関わろうとすること. これはどのような心性なのか?自分の過去の経験に照らしてこの人が何らかの自分の利益になると判断した? この判断と会話するという実行能力は本当は過去に蓄積された経験と学びそしてエネルギーによるのではないか. 前向きに生きると言うことはものすごく後ろ向きに生きていることではないのか. 結果が良いということを重んじた生き方であるとすると最終目標であるところの達成や目標が高いところにあることだ. 目標が高いとは何だろう. 目標は高い方が低いより良いというのはやはり学習によるのではないのか. 前向きの生き方は言葉が間違っており上向きの生き方が正しいのでは.

さて話を戻して, 再度前の話. すぐさっきと, ずっと「前」は感覚的にさっきは距離的に近く, ずっと前は距離的に遠い. 記憶をたどるときに遠い記憶という言葉を用いるので, ずっと前は「遠く」にある. ものを見るときには遠近という概念があって, 距離が有ると遠い. すると遠い昔は自分のずっと「前」にあるといえないか. 人間は古き記憶を距離として遠く感じ, 新しいことは距離として近くに置く. ずっと「前」は自分を起点として前方を見はるかしたときの遠方を指す.

順序が先のことを前というらしい. これはnet 国語辞典にあった. 前科と言う言葉があるが, なるほどこれは説得力がある. 後科という言葉はあり得ない. 時間経過と共に事象を並べるとか,書籍等では, 頁をめくるとかの構造があれば先のこと,過去のこと, 最初のことを前と呼びたくなる.

前はあるが後ろは存在しない. さてこうした文脈からまたしても思いついた. 前はいっぱいあるが後ろはない! 後ろは現在と未来の境目であって,言ってみれば現在の事である.

あるなしから言うと実は前も存在しない. それは記憶というものでしかない. こうやって突き詰めていくと時空という概念は私が自身の内面で体験できることかもしれない.

われわれは物質として存在し, 時間はそれとは別に存在するということはやっぱり間違っており,アインシュタイン博士が言うように時空は等価なのだと.