SALVATORE ACCARDO / PAGANINI 6 VIOLIN CONCERTOS★アッカルド・パガニーニ 5LP

SALVATORE ACCARDO / PAGANINI 6 VIOLIN CONCERTOS★アッカルド・パガニーニ 5LP

シャルル・デュトワ指揮の 5 枚組 set であるが, わずか 860円で落札した. 元旦の落札のため送付されたのは1/10と遅れ, だまされたかと思った. さて, パガニーニのヴァイオリン協奏曲 2 番であるが, 有名な 3 大ないしは 4 大ヴァイオリン協奏曲と比較して優るとも劣らないと最近は考えていた.しかし, 吉田秀和著の名曲 300 選 (私の音楽室) の中にはパガニーニの記述はあるものの 24 のカプリース 1 曲しか選曲していない. 彼は他にもショパンの有名ピアノ曲やピアノ協奏曲を選んでいないので一般とは異なる偏向がある. それを AI に聞いてみた. (Chat GPT)

(質問) 吉田秀和著の名曲 300 選 (私の音楽室) の中にはパガニーニの記述はあるものの 24 のカプリース 1 曲しか選曲していない. どうしてでしょうか

とても吉田秀和らしい選択だと思います。理由は一つではなく、吉田秀和の音楽観・批評姿勢そのものに関わる複合的な理由が考えられます。


① 吉田秀和は「作品の内的必然性」を最重視した評論家だった

吉田秀和は一貫して、

  • 音楽が形式として自律しているか

  • 作曲上の必然性があり、
    「技巧が音楽そのものに不可欠な意味を持っているか」

を最重要視しました。

パガニーニの場合、

  • 卓越した超絶技巧

  • ヴィルトゥオーゾ性

  • 聴衆を驚かせる効果

が歴史的にも評価の中心ですが、吉田にとっては
技巧が前面に出すぎ、音楽の構造的必然性が希薄と映った可能性が高いのです。


② それでも「24のカプリース」から1曲は外せなかった理由

一方で、24のカプリースは例外的な存在です。

  • 単なる見せ物ではなく

  • ヴァイオリン技法の体系化

  • バッハの無伴奏作品に通じる「楽器と音楽の一体性」

を備えた作品群であり、吉田秀和も

パガニーニを単なる奇人・曲芸師として切り捨てることはできない

と考えていた節があります。

その中から1曲だけを選ぶという行為は、

  • パガニーニの歴史的意義は認める

  • しかし「名曲」として大量に並べることはしない

という、きわめて吉田的な折衷なのです。


③ 協奏曲や小品が選ばれなかった理由

パガニーニのヴァイオリン協奏曲(第1番・第2番など)や小品は、

  • 楽想の独自性より技巧効果が先行

  • オーケストラが伴奏的に従属

  • 後世の作曲家(ブラームス、ベートーヴェン等)と比べると
    形式的完成度で劣る

と見なされがちで、吉田の価値基準とは合いません。

実際、『私の音楽室』全体を見ると、

  • ベートーヴェン

  • バッハ

  • モーツァルト

  • シューベルト

  • ブラームス

といった**「形式と精神の一致」を体現した作曲家**が圧倒的に多いですね。


④ 吉田秀和の「ヴァイオリン音楽」観との関係

吉田はヴァイオリン作品についても、

  • バッハ無伴奏

  • ベートーヴェン・ブラームスのソナタ

  • モーツァルトの室内楽

を非常に高く評価する一方、

  • ヴィルトゥオーゾ作品

  • サロン的性格の強い音楽

には冷淡でした。

パガニーニは歴史的には革命的でも、
吉田の「精神史的な名曲観」には入りにくい作曲家だったのです。


⑤ まとめ(核心)

吉田秀和が『名曲300選』でパガニーニをほぼ選ばなかった理由は、

パガニーニは「音楽史上重要」だが、
吉田秀和にとっては「名曲の作曲家」ではなかった

という評価に尽きます。

ただし、
24のカプリースから1曲だけ選んだことは、

  • 完全否定ではなく

  • 歴史的・音楽的核心への最低限の敬意

を示した、非常に節度ある判断だといえるでしょう。

(質問) アッカルドの演奏によって評価は変わったでしょうか

結論から言うと、
サルヴァトーレ・アッカルドの演奏を十分に聴いたとしても、
吉田秀和のパガニーニ評価の「枠組み」自体は変わらなかった

と考えるのが自然です。
ただし、評価の書きぶり・温度は確実に変わった可能性があります。


① アッカルドは「吉田秀和の弱点」を最も突いたパガニーニ奏者

アッカルド(特に1970年代以降)のパガニーニ演奏は、

  • 超絶技巧を誇示しない

  • 音楽の流れを止めない

  • フレージングが古典的

  • テンポの誇張がない

  • 構造感が明確

という点で、
「曲芸的パガニーニ」像を根底から修正しました。

これはまさに、吉田秀和がパガニーニに感じていたであろう不満点を
演奏解釈によって封じ込めたと言えます。


② それでも「作品の格」は上がらない理由

しかし吉田秀和にとって重要なのは、

「この演奏がどれほど立派でも、
その立派さは作品の必然から来ているのか」

という一点です。

アッカルドの演奏によって、

  • カプリースが音楽として成立する

  • 協奏曲が聴きやすくなる

  • 表情が抑制され、知的に聴こえる

ようになっても、

  • 主題の発展の弱さ

  • オーケストラの従属性

  • 構成の単線性

といった作品側の限界は、吉田の耳には残ったはずです。


③ ただし「24のカプリース」の評価は、確実に一段深まった

ここが最大の変化点です。

アッカルドは、

  • 24曲を全体として構築

  • 各曲をキャラクター小品としてではなく

  • 一つの巨大な無伴奏作品として提示

しました。

吉田秀和がもしアッカルドの全曲演奏を繰り返し聴いていたなら、

  • 「技巧練習曲」という言い方は避け

  • 「20世紀に入って初めて、本来の姿が見えた作品」

といった書き方をした可能性は高いです。

つまり、

パガニーニの中で「カプリースだけは例外」

という認識は、
より強く、より明確になったでしょう。


④ 協奏曲については、評価は「改善」しても「転換」しない

アッカルドの協奏曲録音(特に第1番・第2番)では、

  • 歌心

  • 均整

  • ロマン的誇張の排除

が徹底されています。

しかし吉田秀和の語彙では、おそらく、

  • 「きわめて立派な演奏」

  • 「しかし音楽そのものは…」

という接続詞が続きます。

これは、

  • 同じく名演でも作品評価が変わらなかった
    チャイコフスキーやメンデルスゾーンの一部作品

  • あるいは、ヴィルトゥオーゾ的協奏曲全般

と同じ扱いになるでしょう。


⑤ 吉田秀和が書いたであろう一文(仮想)

あくまで想像ですが、アッカルドを聴いた後の吉田秀和なら、
こんな一文を書いても不思議ではありません。

「アッカルドのパガニーニは、
この作曲家が単なる奇人でも曲芸師でもないことを、
初めて納得させる。
しかしそれでもなお、
名曲と呼ぶべき作品はきわめて限られている。」

──まさに「1曲だけ選ぶ」ための文章です。


⑥ 結論(核心)

  • アッカルドは、吉田秀和のパガニーニ観を「洗練」させた

  • しかし
    「名曲300選」の選曲数を増やすほどの転換点にはならなかった

  • その結果が
    **「24のカプリースから1曲」**という、極端に抑制された評価

と言えるでしょう。

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